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7・前に進む勇気 Page8

last update Last Updated: 2025-03-25 09:13:50

「――原口クン、ゴメンね! いくら仕事の話でも、ウチに来られるのはマズいから」

 カフェの入り口から聞き覚えのある女性の声。しかも「原口クン」って? 気になって目で追うと、会社帰りらしい琴音先生と連れ立って入ってきたのはやっぱり原口さんだった。

「まあ、でもいっか。ここ、ウチからも近いし」

「ああ、そうでしたね」

 どうして二人がこんなところに、と思ったら、琴音先生もこの近くに住んでたのか。私は知らなかったのに、原口さんは知っていた。自分の担当外の作家なのに。

「――奈美ちゃん、知ってる人達?」

 私の目線を追っていたらしい由佳ちゃんが興味津々(しんしん)で訊いてくる。

「うん。男の人の方が原口さんだよ」

「えっ? ……あ、ゴメン。で、女の方も知ってんの?」

 由佳ちゃんは興味本位で訊いたことを反省し、今度は声を潜(ひそ)めて訊いた。

「女性の方は、西原琴音先生。由佳ちゃんも知ってるでしょ? 私と同じレーベルから本出してる作家さんだよ」

「ああ、あの人が? ウチの店にも本あるよね」

「うん……」

 二人は私達のいるテーブルから離れた席に着いているので、話している内容までは聞こえてこない。ただ、歩いてくる途中に「仕事の話」って聞こえたような気がするけれど。

 二人と目が合うのが怖(こわ)くて、私はそのテーブルから目を逸(そ)らした。――ああ、最悪! せっかく前を向こうとしていたのに、こんなことでその意欲が萎(しぼ)んでしまうなんて!

「――ね、奈美ちゃん。彼、こっち見てるけどいいの?」

「いい」

 私は固い表情のまま短く答えた。声をかけられたところで、この状況で何を話せばいいんだろう? 恨み節(ぶし)だけは言いたくない。

「――あっ、女の人の方も気づいた! 原口さんに何か言ってるよ!」

「……由佳ちゃん、出よう」

 由佳ちゃんの実況に、というよりこの状況に堪(た)えられなくなり、私は席から立ち上がった。前払い式のカフェなので、そのまま帰ってしまうこともできる。

「えっ、どうしたの!? あたし何か余計なことした!? だったら謝るからっ!」

 私の機嫌を損(そこ)ねたと気にしているらしい由佳ちゃんを、私はフォローした。

「違うよ。由佳ちゃんは何も悪くないの。――そろそろ帰って原稿書かなきゃいけないから」

「……あ、そうなの? じゃあ、あたしはここで。執筆頑張ってね!」

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    「――私ね、前にも話しましたけど、潤とのことがあってから、『もう恋愛は懲(こ)りごり』って思ってたんです。もう恋愛で傷付いたり疲れたりしたくないって。……でも私はやっぱり恋愛小説家だから、性(しょう)懲(こ)りもなくまた恋をしちゃいました」 考えていた台詞はどこかに行ってしまったけれど。私のこの想いだけ伝わればいい。「原口さん。……私、あなたが好きです。多分、二年前に担当になってくれた時からずっと」 よし、言えた! ――さて、彼の反応はどうだろうか?「…………えっ!? ぼ、僕ですか!?」 ……がくぅ。私は脱力した。これってわざとですか? ボケですか?「そうに決まってるでしょ!? 今ここに、他に誰かいますか?」「そう……ですよね。いやあ、なんか信じられなくて」 コメカミを押さえながらツッコむと、彼は夢心地のように頬をボリボリ。でも次の瞬間、彼から聞けたのは思いがけない(こともないか。実はそうだったらと私も密かに望んでいた)言葉だった。「実は僕から告白しようと思ってたので、まさか先生の方から告白されるなんて思ってなくて」「え……?」 待って待って! これって夢?「僕も、巻田先生が好きです。二年前からずっと」「……ホントに?」「はい」 こんなシチュエーション、小説にはよく書いてるけど、いざ自分の身に起こると現実味が薄い。「……あの、あなたが二年前に琴音先生より私を選んだのはどうして? 彼女の方がずっと魅力的なのに」「それは、僕が心惹かれた相手が先生だったからです。責任感が強くて一生懸命で、でも僕のボケには的確にツッコんで下さって。僕にとってはすごく可愛くて魅力的な女性です」 〝ボケ〟とか〝ツッコミ〟とか、いかにも関西人の彼らしい。――つまり、私達の相性は最強ってことかな。SとMで、当たり前のように惹かれ合っていたんだ……。「――実はね、私ちょっと前まであなたのこと苦手だったんです。あなたが酔い潰れた姿を見るまでは、あなたのこと口うるさいカタブツだと思ってたから」 あの夜、〝素〟の彼を見て分かった。彼は精一杯、バカにされないように突っ張っていただけなんだと。「じゃあ、あの夜に僕が本当は何を考えてたか分かりますか? ――もしこのリビングが明るかったとしたら」「え……」 私は瞬く。と同時に理解した。男性である彼が、「理性を保てなく

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     ――そして、待つこと十数分。 ピンポーン、ピンポーン ……♪ ……来た! 私はインターフォンのモニター画面に飛びつく。「はい!」『原口です。原稿を頂きに来ました』「はっ……、ハイっ! ロック開けてあるのでどうぞっ!」 思わず語尾が上ずってしまい、インターフォン越しに彼がプッと吹き出したのが分かった。……恥ずかしい! 緊張してるのがバレバレ! もう二年以上の付き合いなのに(仕事上だけれど)、「今更?」って思われていたらどうしよう? そしてそのショックで、昨日まで練(ね)りに練った告白プランが全部飛んでしまった。「――先生、おジャマします」「はい、……どうぞ」 玄関で原口さんを出迎えた私は顔が真っ赤だったはずだけど、彼は「今日、暑いですよね」と言っただけでいつもの定位置に腰を下ろした。――彼なりに空気を読んでくれた?「あの、先生――」「あ……、原稿ですよね? ここにちゃんと用意してあります」 何か言いかける彼の機先(きせん)を制し、まずは原稿の封筒を彼に手渡す。「あ、ありがとうございます。――あの、ここで読ませて頂いてもいいですか?」「はい。じゃあ私、冷たいものでも淹れてきますね」 私はキッチンに立つと、二人分のアイスカフェオレのグラスを持ってリビングに戻った。 彼は普段と変わりなく、原稿を一枚一枚めくっている。でも今回はじっくり時間をかけて読み込んでいる気がする。「――コレ、どうぞ」 グラスを彼の前に置いても、「どうも」と会釈してくれただけで、視線はすぐ読みかけの原稿に戻された。私は何だか落ち着かず、彼の隣りでアイスカフェオレを飲みながら成り行きを見守ることに。 ――原口さんが二百八十枚全部を読み終わったのは、夕方五時半ごろだった。「どう……でした? 誤字とかのチェックはもう自分でしてあるんですけど」 私は彼に、原稿の感想を訊ねてみる。毎回この瞬間はドキドキするけれど、今回の緊張感は普段とはケタ違いだ。「……いや、これスゴいですよ。恋愛遍歴なんかもう赤裸々(せきらら)すぎちゃって、僕が読むのなんかおこがましいっていうか何ていうか」「いいんです。あなたに読んでほしかったから」 私の過去の男性遍歴は、あまり人に自慢できるようなものじゃないけれど。それでも好きな人には知っていてほしいから。

  • シャープペンシルより愛をこめて。   9・シャープペンシルより愛をこめて。 Page8

    「――で? 告白の時はもうすぐなの?」 笑いがおさまったらしい由佳ちゃんが、私の顔を覗き込む。「うん」 締め切りは来月半ばだけれど、今の執筆ペースでいけばそれより早く書き上げられるはず。そしたらその日が、いよいよ告白決行のX(エックス)デーだ! 美加も由佳ちゃんも、そして琴音先生も気づいている。彼が私を好きだってことに。そして多分、私の気持ちを彼も知ってる。告白にはエネルギーが必要だけど、今回はもしかしたら〝省エネ〟で済むかもしれない。「そっか。きっとうまくいくって、あたし信じてるよ! ――さて、早く食べて仕事に戻ろ!」「うん!」 作家の仕事と同じくらい、私はこの書店での仕事も大好きだ。このお店で大好きな仲間と働けていることに感謝しながら、私はお弁当の残りをかき込んだ。   * * * * ――それから二週間ほど経った。 週四~五日は昼間はバイト、夜は原稿執筆に精を出し、休日には書けたところまでをチェックするという日々を送り、季節は梅雨からすっかり夏になっていた。今年は梅雨明けが早かったらしい(注・この作品はフィクションです)。 今日は店長のご厚意(こうい)で、有給にしてもらえた。昨日、「今の原稿、明日には書き上げられそうなんです」って私が言ったら、「じゃあ明日は有休あげるから、執筆頑張るんだよ」と言ってくれたのだ。

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